13 3月

とこしえに閉ざされることのない《愛》の中で生かされている〈個々〉であることを信じてやまない〈個〉の私

以下の内容を、勿論、3障碍の〈存在的現実〉を天秤にかけて語れる訳ではないことを前提にする。
他障碍者の親御さんは、親亡き後の準備で、地域において、必死に社会的資源づくりと人的資源づくりに心血をそそいできた歴史がある。精神界の親御さんは、目の前の存在的現実の対応だけで精一杯であった歴史がある。親亡き後のことを考えて、社会的資源づくりや人的資源づくりどころではなかった。親と子の間の溝をうめるのに心血をそそぐ渦中にあった。両者の主体的意志に関係なく、親の心が子にとどかず、子の心も親にとどかずであった。子の現実には、理解不能な〈脳内メカニズム〉のはたらきがあることを知る余地もない親であった。親は、それが理解できず、子の姿に追いつけない現実があった。過去のことではすまされない現実が、未だにある。これが、精神界における両者のありのままの姿だ。どんな局面を前にしろ、結局のところ、親は親の人生がある。そして、それが、《愛》に包まれた人生であれば幸い。それから、子は子の人生がある。それが、また、《愛》に包まれた人生であれば幸いだ。